概要

Induk KUDの歴史

KUD(農村協同組合)は、Koperta(農業協同組合)とBUUD(協同組合の前身)から始まります。1963年に政府は、基本的な食料品である米を生産している農家からKopertaのイニシアティブを取りました。その時の政府の規則によって、農村レベルのKoperta、地区レベルのPuskoperta、州レベルのGakoperta、国レベルのInkopertaの4つのレベルのKopertaがありました。

 

1966年から1967年にKopertaを継承するものとしてBUUDが発達しました。BUUDは地域水田で6001,000ヘクタールの耕作面積がある、いわゆる農業経済地域内の農業協同組合と農村単位の協同組合が合併したものです。

 

BUUDの仕事は生産物の加工とマーケティングはもちろんのこと、生産工程(ローンや利益分配の規定を含む)や、生産設備の提供における問題を克服するために農家の手助けをすることです。この仕事の枠組みにおいて、BUUDは穀物を購入し、精米し、Dolog(国営物流機関)に卸し、また、肥料の販売代理店にもなります。そして、地方の発展のためにBUUDKUDが一緒になる協同組合構想のコンセプトができました。

 

その後、BUUDの役割が徐々にKUDに代わっていきました。初期段階における協同組合の発展は急速に進みました。協同組合の存在は、特に食料の調達との関連においては、政府の戦略から分離することはできません。KUDの発展が始まって以来、政府はKUDの発展に3段階の戦略を設定しました。すなわち、中央集権、地方分権、自立(独立)です。

 

KUDの指導と発展戦略に沿って、KUDの体制の中にPusat KUD(第2段階の協同組合)が生まれました。これは発展段階における経験で、単独の協同組合では解決することができない事業、組織、資本のような様々な問題に直面してきたからです。このような背景により、一部の地域ではKUDの役員がPusat KUDの設立を開始しました。最初につくられたPusat KUDは、Metaram DI Yogyakarta-Pusat KUD (1973年)であり、続いて、West Java-Pusat KUD (1974年)、North Sumatra-Pusat KUD (1974年)、Central Java-Pusat KUD (1974年)、Lmpung-Pusat KUD (1974年)、Bengkulu-Pusat KUD (1975年)、South Kalimantan-Pusat KUD (1975年)、East Java-Pusat KUD (1975年)などです。

 

正式にInduk KUD (当初はINKUDと言いました)を立ち上げようと考えられたのは、1977117日から8日にジャカルタで開催された第10回全国協同組合評議会(Munaskop)に見られます。Munaskopフォーラムにおいて、ジョグジャカルタのDEKOPIN(インドネシア協同組合協議会)の代表であったMetaram Dl Yogyakarta-Pusat KUDからSoenarjoが、西ジャワのDEKOPINの代表であったWest Java-Pusat KUDからElyasが、そしてほとんどすべての州がPusat KUDを設立したので、MunaskopInduk KUDの設立に関して推薦を明記することができると提案しました。

 

その後、Induk KUDを設立するという考えを認識するために、1979525日から26日に西ジャワのトレテスのPusat KUDで「第1回全インドネシアPuskud年次総会」と呼ばれるフォーラムが開催されました。その会議には8つのPusat KUD (東ジャワ、西ジャワ、ジョグジャカルタ、中央ジャワ、バリ、北スマトラ、アチェ、北スラウェシ)の代表団が出席し、East Java-Pusat KUDの委員によって始められました。後にその会議は、1979118日にジャワとバリの全てのPusat KUDが出席しジャカルタで開催され、より本格化していきました。

 

1979112日に、ジャカルタのJl. M. T. Haryonoにある協同組合担当大臣の4階の事務所で開催された会議においてInduk KUDは設立されました。Induk KUDの設立会議には、次の8つのPusat KUDの代表が参加しました。

マタラムディジョグジャカルタ (Soenarjo)、東ジャワ (Ir. Sahri MuhammadDrs. Harnowo)、西ジャワ (M. Yahya Suryanegara)、中央ジャワ (Ahmad Makmun)、バリ ( Wayan Tegeg, B. Sc.)、ハルバンタニ北スマトラ (Ruslan Girsang)、アチェ (Drs. Soebiakto Tjakrawerdaya)、北スラウェシ (Eddy A. IIIat)。一方、政府の代表者は次のとおりです。Binor Ditjenkop理事 (JB. Ismartono, SH)、Binor Ditjenkop理事 (Mamiet Marjono)、そして協同組合総務次官からの専門スタッフ (Drs. Soebiakto Tjakrawerdaya)。そして初めてInduk KUDは、ジャカルタのJl, M. H. ThamrinにあるSarinahビル9階に事務所を開設しました。

 

1980712日、第33回 協同組合デーにおいて、Induk KUDは政府の協同組合に関する法律に基づき承認され、No.8282の承認番号を与えられました。

(文中、敬称略) 

 

 

Induk KUDの活動背景

Induk KUDの活動には以下の背景がありました。

 

1. 当時、KUDが農民の生産物、例えばキャッサバ(乾燥キャッサバ)を外国に輸出する機会がありました。有効性と効率のためにはこの輸出はInduk KUDによってなされるべき役割です。

2.  Induk KUDも会員の生産物の海外への輸出のマーケティングの関連において良い国際関係を必要とします。そのためにInduk KUDは、ICA(国際協同組合連盟)のメンバーであるDEKOPINを通して海外へと展開しました。

3. 教育と訓練では、KUDは地方での訓練活動にInduk KUDを通じて強力な支援を受けました。例えば、Induk KUDの役割と支援には、IKOPIN(インドネシア協同経営大学)とLapenkop(協同教育訓練機関)の設立があります。

 

 

展望と使命

展望

 

Induk KUDは、その組織を通して、公正で豊かな社会を実現するために、国民経済の柱となります。

 

1. 国民経済の柱であること

地域の可能性に基づく経済活動の体制を支持する柱として、国家の発展は経済的、社会的、政治的制度の強化を通して実現されます。協同組合は強化される必要がある経済の柱の1つです。

2. 変わらぬ原理

Induk KUDとその組織が行なうすべての活動のポイントは、法律の規定、協同組合の同一性、宗教、文化、地方の習慣に言及しなければなりません。したがって、Induk KUDは地域社会から信頼され受け入れられる活動を開拓してきました。

3. 公平で豊かな社会の実現

Induk KUDの活動は会員やコミュニティへ経済的利益を提供することです。

 

 

使命

 

1. 原則を遵守して、適応能力を持ったInduk KUDとその組織の構築

2. 地域の特徴を生かした事業の発展

3. 会員の福祉と地域社会の可能性の向上